2025/04/17 光岡眞里の「あゆみ」メールマガジン【削ぎ落すということ】

**************
光岡眞里の「あゆみ」メールマガジン今日も元気にパワフルに!
作者:光岡眞里 2025年04月17日号 VOL.736
**************
先日は論文の話を書いたけれど、今回はまた少し違うことを考えていた。なるほど、と思ったことがあったので、ここに書いてみようと思う。

最初の論文は、ちょっと欲張りすぎた。あれも、これも、それも。どれもこれも意味があるし、やったことだし、書いておきたくなったのだ。でも気がついたら、論文のテーマは複数になり、文章は長くなり、対応表を作りながら何日もかけて修正するはめになった。

そんなとき、指導教授がぽつりと教えてくれた。

「最近はね、以前と違って、多方面から多角的な検討をしたっていう論文よりも、この仮説に従ってこういう実験をした!結果出た!有効である!以上!!みたいなのが歓迎される傾向があるんだよ」

つまり、全部を見せるのではなく、一本筋の通ったストーリーで勝負する。あっちこっちに枝葉を伸ばすのではなく、真ん中をぐっと押すようなやり方。なんだかそれは、少し前の自分のやり方とは逆のようにも思えた。

話は変わるけれど、私は仕事柄、毎年いくつかのプロジェクトを抱えていて、年度末には報告書を書くことが多い。昔は100ページを超える報告書を書いて、「これもやりました」「あれもやりました」と一生懸命詰め込んでいた。

「読み応えがありました」とか「丁寧にまとめてくださって感謝です」と言ってもらえることもあったけれど、本当のところ、必要とされているのはたぶん、もっとシンプルなものなのだ。

たとえば、「これを何回やって」「どれくらい時間がかかって」「その結果こうだったから効果あり」。それだけでいいのかもしれない。それ以上でも以下でもなく。

そういえば、もう15年くらい前になるだろうか。10分間のプレゼンテーションで賞をいただいたことがあった。そのとき、どれほど言いたいことを削っただろう。

言葉を切るのは、勇気がいる。もったいない、とも思う。でも、伝えるということは、削ぎ落とすことでもあるのだ。

最近は、「どれだけの時間をかけたか」ではなく、「どれだけの成果を出したか」を、見られている気がする。生産性、という言葉が、まるで天気予報のように毎日飛び交っている。

けれど私はまだ、自分の中に眠っている“余白”のようなものを、簡単には諦めたくないと思っている。

余白=ストーリーが大事だと思っている。
*****************