57年ぶりのオリンピック~「老い」というものを考えた

賛否両論のオリンピック、その事自体について何か書くつもりはもうとうない。テレビのない部屋から出て、散歩の途中でイヤホンから流れてきたフレーズ、「57年ぶりのオリンピック」に昨日からずっと考えたこと、感じたことを書きたい。

こう書くと年がバレるが、57年前のオリンピック、私は存在はしていた。母のお腹の中で。大正生まれの粋な母、「結婚は人生の墓場」と粋がっていたらしいが、40になるかならないかで父と出会っている。42で私を生んでいるので当時いわゆる丸高(高齢出産)と言われたが、若くていつまでも「女」を忘れていない母だったと思う。恐らく、初めての子供の世話をしながらあまり働かない父を横目に洋裁学校を経営しながら最も輝いている50代を過ごしたはず。いい女だったんじゃないかなぁ。さらに、60代では完全に寝たきりで社会復帰ができなくなった父を看ながら、営業職でバリバリ働き、私達姉妹を大学まで行かせてくれた。世間的には可愛そう、苦労してる、波乱万丈、なんて言われながらも結構楽しく過ごしていたのは「太陽」みたいに明るかったから。私達子どもたちには何不自由なく教育を受けさせてくれたけど、私が剣道の特待生として関東の大学へ行くときは、やはり経済的にも大変だったようだ。今更ながら、よく行かせてくれたと思う。当時やり取りをしていた手紙を見返しても、子供の成長が糧だったんだとつくづくわかる。やがて私は家庭をもった。

そして70代、長く寝たきりだった父を見送り、70歳前半まで現役で働く。車をブチブチぶつけるようになり、やがて運転をやめた。それでもパワフルで70の手習いでピアノを習い始めたり、いろんな事に興味をもっていた。80歳くらいから、急に「美人」になったと思ったのはなぜなのか、経験を経ての「余裕」が美しさに見えたのか。なんだか、歳をとるごとに品があってより素敵だった。

孫の成長を見守りながら、80歳後半でひ孫まで見ることができ、幸せな晩年だったと思う。90過ぎてもメールを使いこなし、私が全国を飛び回っていたときはいつもこのメールに元気づけられた。

あんなにお買い物や旅行を楽しんでいたのに、だんだんと体力が落ち、やがてフレイル期を迎える。気にはなりながらも自分の仕事が忙しくて、十分な対応が出来なかったのは誰しも後悔するところだろう。「倒れた」という連絡は出張先の名古屋のホテルで受け、1年間の入院生活の末、逝ってしまった。危篤の知らせをうけたのもまた名古屋。新幹線の中で「ごめんね」とハラハラ泣いたのを今でも忘れない。

逝ってしまってからは臨終の時の「最期の一息」の瞬間がフィードバックされ、どうしても拭えない悲しみと、思いっきり泣けない日が続く。毎日、思わない日はないし、今度は自分の「死」を考える番なんだなとわかってはいるけど相変わらず日々に追われる毎日で潰される。いつかこの体力がなくなった時、どうやって幕を閉じるか、を考えている。

これが前のオリンピックからこのオリンピックまでの57年だ。

今朝、京都の春光院の副住職(川上全龍氏)が主催するオンライン坐禅会に参加したら「老い」がテーマだった。鈴木大拙氏が「肘外に曲がらず」に感銘をうけたという話があった。肘というのはもともと外にはどうしたって曲がらないものなんだよ、不自由が自由なんだと。「老い」とは自分の身体を自由にコントロールできなくなって不便になること・・・

自由とはなんぞや?
いつも難しいテーマでわからないことだらけだ。

結局何を書きたいかわからないのだが・・・
私が80歳になったとき、2021年7月に行われた東京オリンピックの時に何を考えていたか?を思い出すのにここに備忘録として残す。